日本会議広島における活動の記録です
21回目となる戦歿者追悼平和祈念の集いが、広島護国神社参集殿で行われた。韓国大統領による竹島侵入の数日後ということが影響したのか、例年になくマスコミ関係者の参加が目立った。

国歌斉唱、護国神社拝礼、松浦日本会議広島会長の開会の挨拶の後、「1945年の日本の若者」と題して、株式会社大之木ダイモ代表取締役・呉水交会名誉会長・大和ミュージアム友の会会長の大之木英雄氏が記念講演をされた。大之木氏は昭和18年に一橋大学から14期学徒動員として海軍に入隊。
「北朝鮮の元山というところで戦闘機パイロットとしての訓練を始めた。動員学徒はインテリであり体制批判は誰よりも鋭かった。猛訓練の終わった夜は隊員同士、明日をも知れない身を前提とした激しい討論が行われ、その結果、体制批判が消え自分達の使命を悟るようになった。19年に入り特攻作戦が始まった。米軍の熾烈な空襲により都市は焼け野原となり女子供や老人が次々と死んでいく状況で日本の兵隊として、また日本の男として特攻に参加するのは当然という気持ちだった。歴史の犠牲者ではなく自らが歴史を作るのだという気概があった。それでも受命の瞬間は、行く者も送る者にもビリッとくるものあった。受命から出撃まで40日ほどあったが、荒れる者もいた。夜に行李から便箋を出し遺書を書いている後ろ姿は凄惨なものがあった。しかし出撃当日になると皆これ以上ないような澄んだ目をして爽やかな姿をしていた。「俺も後から行く」と言って別れたのに約束を果たせなかった自責の念が今も残る。」
「特攻を犬死であったとか、可哀想と思うのは、散った者に対する冒涜である。実際に敵艦船へは甚大な被害を及ぼしたし、米兵の精神的なダメージは非常に大きかった事が米軍側の資料に残されている。戦後、占領軍の士官から「特攻ほど恐ろしかったものは無かった。」と、自分が特攻隊員の生き残りであると知った時に言われ、その後私に対する待遇ががらりと変わった。」と語られ、最後に「特攻とは何であったかというと、それは時代の宿命であり使命であったと思う。」と結ばれた。

正午に東京の戦歿者慰霊祭に合わせて黙祷、続いて天皇陛下の御言葉を拝聴。声明文を朗読し参加者全員で「海ゆかば」を斉唱し閉会となった。
なおこれに先立ち同神社にて「英霊感謝祭」がしめやかに執り行われた。
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- 2012/08/15(水) 18:06:32|
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